●誕生日の証し
わが牧師の奨めに従って、誕生日記念のあかしをまとめておく。
今月、○○回目の誕生日を迎えた。第二、第三の人生を迎えてから、しばらく平凡ながら平穏な生活、平穏な誕生日をここ数年迎えて、馬齢を重ねてきた(馬齢などというと、牧師が嘆くので、あまり大きな声で言えないが)。
しかし、今年の誕生日は違う。大変な危機の中で迎えた。家庭での誕生日のお祝いも盛り上がらなかった。妻が手術が必要な重症の病気を二つも持つことが判明したからだ。持病と合わせて三つ、いずれも命にかかわる病である。
このような環境の中で、ここ数年間こころを占めている言葉がある。自分が愛唱する聖書の言葉と合わせて、自分の言葉/表現でとらえた次の言葉である。
それは 「人生は極まることがない」という言葉である。「極まる」には二通りの意味がある。辞書によれば、(1)もうこれ以上はない、という状態になる。【例】感極まる (2)いきづまって、それ以上はどうにもならない、という状態になる。【例】進退極まる。
(1)の意味、すなわち「もうこれ以上はない」という意味での「極まらない」わが身の卑近な例を挙げたい。実は2年ほど前に尿路結石を患って以来、その再発防止と健康維持のために、地元のシルバー世代の卓球クラブに入れてもらい、家のすぐ近くの市営体育館で練習を続けている。
卓球は若い頃にやっていたので少しは身についていた。年も年だし、そうがむしゃらに練習するわけでもないので、大した上達は望めないだろうとあまり期待していなかった。ところが、昔の練習で身についていたペンホルダーグリップをシェイクハンドに変え、2年間続けたところ、かなり上達し、まともになってきた。もう自分の過去のペンホルダーの技術レベルを超え、新しい境地を目指す段階に来たと自負している。
その一つ、ペンホルダー時代にはバックハンドではとても強打で攻撃はできなかった。ところが最近は、シェークハンドを練習したおかげで、バックハンドの強打が現実味を帯びてきた。うれしい!
ささやかな自己体験。もう年齢的に進歩は限界か? と思うようなことでも進歩がある。スポーツ(卓球)で体験したことが、人生の生き方=キリスト信仰の世界でもあてはまると思う。マンネリに陥りやすい信仰人生。しかしそこにも限界=「極まり」はない筈だ。
ちょうどタイミング良く、先日、韓国の大牧師チョウ・ヨンギ師を迎えて開かれた「教会成長セミナー」に出席できた。そこで教えられ、学んだことは真に「人間成長セミナー」であった。人間成長・信徒成長に限界があってはならない。「極まる」ことがないことを学んだ。
もう一つの「極まる」について:
2ヶ月ほど前からのことであるが、わが家の進退が「極まる」恐れがでてきた。最初に挙げた妻の二重、三重の病である。さらに障害を背負った娘がいる。どうしても悪い方向、最悪の事態、状況を想定しがちだ。このたびチョウ師が説いた一つの大切なこと、「否定的な事を言ってはならない」をいつも心に留めておきたい。わが牧師もいつも説き祈っている「否定的な思い、消極的な思いよ去れ!」を思い出しながら。。。
「(主を)信じる者は慌てることがない」(イザヤ28:16)と聖書は語る。「信じる者は、極まることがない」と読み代えている。主を信じる者は、二進も三進もいかなくなることがない、と信じている。必ず道が開かれる。チョウ師の教え:「自分一人でもの事をやるな(できると思うな)、聖霊なる神の助けがなくてはできない」。家族・家庭に関する事も全く同様にあてはまる。“聖霊なる神様!主よ、わが家を危機から助けてください。どうか妻の病を癒してください!”
「あなたの道を主にゆだねよ」(詩37:5)